日本人とインフレ、かつてどう戦ったか?

石井孝明
ジャーナリスト
【写真1】多くの日本人が経験していないインフレ局面に
【写真1】多くの日本人が経験していないインフレ局面に(iStock)

インフレは「いいこと」か?-過去の経験を考える

総務省が発表した9月の東京都区部の生鮮食品を除く総合の物価上昇率は2.8%となった。これはバブル経済の余韻が残る1992年4月以来の水準で、日本は30年間経験しないインフレの時代に突入している。

2012年12月に成立した安倍政権は、2%の物価上昇目標を掲げていた。それを達成し、さらに上振れしている。しかし政府はインフレ対策に動かない。物価上昇を抑制する金利の引き締め、円高への為替介入、財政抑制は、積極財政で発行の膨らんだ国債の、価格の動揺を招きかねないためだろう。

亡くなった安倍元首相はアベノミクスで「デフレ退治」を掲げ、インフレを良いこととするような発言を繰り返していた。確かに好況時にインフレは起こりやすい。しかし良い事ばかりなのか。過去の歴史は、インフレの怖さを私たちに教える。庶民がかつてインフレにどのように向き合い、苦闘したのか。経験者の声を紹介してみたい。

資産も命も国は奪った−­戦後の「悪性インフレ」

1945年から48年にかけて、「悪性インフレ」と呼ばれる経済状態になった。物価は45年(昭和20年)1月比で、46年には302%、47年には904%、48年には3430%に急騰している。空襲や敗戦による社会混乱、工業施設の破壊や人手不足による農業や工業生産の減少、物資流通の途絶、戦時統制の撤廃、コメの凶作、貿易の途絶、物資隠匿などの複合した要因が、インフレをもたらした。

15年前に、当時60歳代後半だったある年金基金の顧問を取材した。その人からインフレをめぐる思い出話を聞いた。「バカヤロウ」。新潟県で自作農だった祖父が怒鳴りながら紙の束を壁に投げつけていた姿を、その人は覚えていた。終戦直後の3−4歳ごろの記憶だ。後から考えると、戦時国債や預金通帳の束だったろうという。

経済史の年表を紐解くと、46年2月にインフレ鎮静化のためという名目による「金融非常措置」によって、預金の支払いが制限された。人々はインフレで自分の預金価値が下がるのを強制的に傍観させられた。戦時国債の多くは固定金利で、インフレもあり価値が暴落した。国は戦争中に、国債の購入を奨励した。

【写真2】戦時国債や預金証書。東京大空襲で亡くなった人の遺品。戦後、これはインフレでほぼ無価値になった(東京都慰霊堂、墨田区)
【写真2】戦時国債や預金証書。東京大空襲で亡くなった人の遺品。戦後、これはインフレでほぼ無価値になった(東京都慰霊堂、墨田区)(筆者撮影)

当時70歳代のその祖父は日露戦争に従軍して左腕をなくした。帰郷後妻をめとり二男一女を得たが看護婦だった娘と次男を太平洋戦線で亡くした。そしてその顧問の父親である長男は満州からシベリアに抑留され、49年に帰国できたが、終戦直後は生死不明だったという。47年にこの祖父は心労のためか亡くなってしまう。

ただしこの家は立ち直った。この家は自作農で、作ったコメは予想外に高く売れたという。また父親が帰国して農業を行い、さらには一部の土地を売り、なんとかインフレを持ちこたえたそうだ。

この顧問は取材した15年前、当時は投資例が少なかった非伝統的金融商品をポートフォリオ(資産構成)に先駆的に組み込んでいた。それは証券化した土地、山林、金やレアメタルなどだ。日本以外では経済成長とインフレが続き、これらの実物資産は90年代末の底値から上昇して、この年金基金の運用成績を平均以上にしていた。これはこの顧問の「国を信じない」という考えが影響していた。

「大日本帝国」は、祖国を信じた老人の幸福と財産を奪った。「祖父の姿が目に焼き付いてねえ。日本を愛しても、日本政府はそれ以来嫌いなんだよ」。この顧問はこのように話していた。

社会不安をもたらしたオイルショックとインフレ

もう一例の私の家族の経験を紹介しよう。高度経済成長期の1971年から75年にかけて、スタグフレーション(成長の停滞とインフレの同時進行)が日本を襲う。中東情勢の緊迫によってアラブ諸国を中心とする石油輸出国機構(OPEC)が原油価格の引き上げをしたことが背景だ。おりしも73年当時は田中角栄首相が主導する「列島改造」で土地投機や財テクが広がっており、資産価格が上昇しやすい地合いにあった。

当時の卸売物価指数をみると、73年には対前年比で21・7%増、74年には同20%増を記録した。「狂乱物価」と呼ばれるすべてのモノが上昇して、73年秋には一時人々が買いだめに走り、生活品や雑貨が不足した。

私の家族は東京の下町に住んでいた。当時2歳(71年生まれ)だった私には記憶がない。母は私と乳児だった妹を抱え途方に暮れたという。パニックには巻き込まれたくはないと、行列には並ばなかったが、おむつや牛乳、トイレットペーパーが店頭からなくなった。すると近所の親切な日用品問屋の人が、深夜訪ねて、生活用品をこっそり渡してくれたそうだ。「見つかったらこの町で商売ができなくなる」と言われた。とげとげしい空気が日本を覆っていた。

物不足は数ヶ月後になくなったが、物価上昇で生活は大変だった。私の父は大卒の普通のサラリーマンで、給料は物価ほど上昇しなかった。ただし家族は私の祖父母と同居しており、曾祖父が建てた家、そしてわずかの土地があった。これで救われた。

曾祖父は1890年生まれで92歳まで存命していた。愛知県から上京して大工として働いていた。この曾祖父も現金を信頼していなかった。その理由は、1923年の関東大震災と、1945年3月10日の東京大空襲を経験し、異常な光景を見たためだ。

大震災は東京で被災。そして大空襲の翌日は、疎開していた埼玉から東京に向かって仕事場と3つあった家の状況を見るため、避難民の洪水と逆に歩いた。貸していた家3つは燃えてしまった。この2回でいずれも、避難民の中に札束をほどいて紙幣をばらまいていた人がいたそうだ。しかし誰もそれを拾わなかったという。「国なんてもろいものだ」と、曾祖父は繰り返していた。

曾祖父は現金を信頼しなかったが、株なども知識がないので手を出さなかった。そこでお金を貯め、その本業の大工のコネを使って家と土地をいくつか買い、貸していたという。それがインフレから私の一族をある程度守った。もちろん両親がまじめに働いてくれたから、私は大学教育を受けられた。

実物資産はインフレに強いがリスクも多い

2つのインフレのエピソードから得られる教訓は何であろうか。

個人の資産にとって、インフレは敵だ。預金や、固定金利の金融資産の実質的な価値を減らす。資産運用でインフレは「マーケットの海賊」というあだ名がある。突如やってきて大切な資産の実質価値をかすめ取ることを意味する。

そして実物資産はインフレでは耐性がある。しかし不動産は換金性に問題があるし、投資額が巨額で専門知識が必要なために、安易に投資は勧められない。資産価格が上昇した日本の1990年前後のバブル経済期に多くの人が不動産を高値づかみして困った。読者の皆さまの周囲には、参考例がたくさんあるはずだ。

株はインフレに強いと言われるが、その際の社会変動で企業の勝ち負けが激しくある以上、上昇株の適切な選択は困難だ。実物資産に目を向けつつ、分散投資を行うという常識的な投資方法が、普通の庶民にとってインフレ局面で資産を守ることになる。

「通貨の堕落」は社会を壊す

社会全体に目を転じてみよう。インフレは、経済成長を伴い賃上げとバランスが取れればいい。しかし物価だけが過度に上昇する場合が多い。それは社会不安をもたらすし、現預金の価値が下がり、給与収入のない高齢者や富裕層が没落するなど、社会構造の変化が起こる。皆が揃って貧しくなることも起こりかねない。経済活動には、社会の安定が必要だ。インフレはその混乱を貨幣面から起こしてしまう可能性がある。

「社会の存続基盤を転覆するうえで、通貨を堕落させること以上に巧妙で確実な手段はない」。経済学者のケインズは、こうした印象的な言葉で、インフレに警鐘をならしている。

引用した2つのインフレ局面は政府の失敗、そして外からのショックによってもたらされた。そして「政府を信じない」人ほど、苦しみは他の人より少なかった。これからの日本には、インフレという多くの人は、未体験の状況が訪れるだろう。「政府を信じない」という常識を持つ庶民ほど、生き残る可能性が高くなった先例があることを、私たちは胆に銘じるべきだろう。

 

 

 

コメントを残す

ランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事